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ダンヒル:dunhill
1961年アルフレッド・ヘンリーはダンヒル・グループの総帥になり、同時にメアリーはダンヒルの社長に就任している。
1880年代、アルフレッドダンヒルが父の働く、馬具用品のの製造卸会社で働き始める。
21歳で会社の経営を引き継ぎ、社名を自身の名を関した「ダンヒル」に変更。ここからダンヒルの歴史が始まった。
20世紀に入り自動車が普及してきてからは自動車旅行用品を多く売り出した。
オープンカーでも使用できるコートやレザー製品の小物などを取り扱い、成功を収める。
その種類の豊富さは、しばし「クルマ以外なら何でも揃えている」と表現される。
その後ブリティッシュ・アメリカン・タバコ社を通じてタバコや葉巻ブランドを展開、現在に至るまで有名な製品となっている。
ライターやパイプなどのタバコ用小物やバッグ、時計や衣料品など様々なジャンルの製品を製作しており、
女性向け製品も製作するものの、基本的には男性向け製品を主に展開している。
≪歴史≫
1920年代、タバコの規制を伴い、ブランドの中心をレザー製品に戻す。
1923年、メアリー17歳のとき、彼女は父の会社に会計係として入社、以後半世紀以上をダンヒルとともに歩むことになるのである。
1923年、シュルツの出資により325,000ポンドの資本金でロンドンに Alfred Dunhill Ltd. が創立される。
社長はアルフレッドでハーバートが筆頭取締役、アルフレッド・ヘンリーとヴァーノンも取締役に名を連ねた。
(シュルツはこの会社の株の大半を所有)
1924年にはニューヨークに Alfred Dunhill of London Inc. を、その他にトロントとパリにも同様の会社を設立した。
1926年のある日、メアリーは父に呼び出される。「美容院をやらないか? そこで化粧品も売ろう」20歳のメアリーは飛びついた。
アルフレッドにとっては、今や自分だけのものではなくなったデューク・ストリートの商売とは全然別の会社を
興すという目的もあったのだ。こうして アルフレッドの出資によりMary Dunhill という新たな会社が誕生する。
1927年、シュルツの招きでメアリーと母は三週間のニューヨーク旅行に行く。
キュナードの豪華客船で訪れたニューヨークは世界経済の中心地であり、ロンドンとは別世界の賑やかな街だった。
ニューヨーク、アメリカというものを生で見たことは多いに刺激となり、29年にも再び訪れている。
その頃までに不動産やレンタカー業などによって、巨万の富を築いていたシュルツに連れられて遊び歩いたニューヨークでのスーパーリッチの暮らしぶりは彼女に強い印象を残した。
しかし彼女が英国に帰ってまもなく、ウォール・ストリートの株の大暴落から始まる大恐慌でシュルツはほとんど一文なしになってしまうのだった。
そしてアルフレッドも、その一族もシュルツに勧められて行なった投資が全て回収不能となり、大きな損害を被る。
1928年には、アルフレッドはダンヒル社を離れ引退生活に入っていた。
1930年の夏のある日、アルフレッドはついに家族を捨てて家を出る。
パイプ以外の紳士用品、つまりライター、革製品、化粧品など、現代のダンヒル商品ラインナップの多くはアルフレッドの時代に基礎が出来ていたとは意外であった。
この頃ダンヒル社を取り仕切っていたのはハーバート・ダンヒルだった。だが健康にすぐれない彼は療養を兼ねてイタリアに滞在しており、そこからロンドンのダンヒル・オフィスの全てをコントロールしていた。
30年代には万年筆、化粧品関連の製品の販売をスタートしてヒットさせた。このときには皇室ご用達のブランドにまで成長していた。
1938年頃からは戦争の暗雲がたちこめてくる。この年ヴァーノンが病気で急死、ダンヒル社には大きな損失となった。
ハーバートはメアリーの美容院ビジネスが崩壊したことを知ると、その会社の残りの在庫を全てダンヒルが買うように取り計らってくれた。
彼はアメリカでの化粧品ビジネスに備えたかったのである。こうしてメアリーは再びダンヒル社に専念し、
1944年には取締役になっている。
ハーバート・ダンヒルの老化により
1948年までにはメアリーの兄、アルフレッド・ヘンリー・ダンヒルが社長に就任していた。
この叔父は1951年に亡くなる。その言葉どおり、メアリー達は遺産を受け取り、ダンヒル社の株式の多くも引き継ぐ。
1957年に登場する Rollagas Lighter の成功である。フランスのダンヒルがスイス人と開発した、このガス・ライターの先駆けはそれまでのダンヒル製品のなかでは最大のヒットとなった。
1959年このライターの最初の海外輸出先は日本だった。以来日本は最大のマーケットのひとつであり続けている。
なおメアリーは1958年に幼なじみと再婚している。
1961年アルフレッド・ヘンリーはダンヒル・グループの総帥になり、同時にメアリーはダンヒルの社長に就任する。
ダンヒルに関してはその後、多くのファッションブランドを傘下に置くリシュモングループに買収される(カルティエ、クロエなどを傘下に置く)
67年に Carreras Ltd. (のちの Rothmans International )と契約を交わす。彼らはダンヒルの株式の50%を所有することになった。
こうしてダンヒルは業績を上げていく。服飾、アクセサリー、化粧品などがより広く展開され輸出を伸ばした。
売り上げの80%は輸出だが、
72年頃の輸出の内訳は極東(日本がメイン)43%、ヨーロッパ39%、アメリカ15%となっている。
好調な業績はアメリカでの問題を解決することにも役立った。
1966年、アメリカでのダンヒル関連の会社を買い戻すことが出来たうえ、数年のうちにアメリカでのセールスを倍増させている。
1969年イギリス、エリザベス女王からブランド製品の輸出実績が評価されて表彰を受ける。
アルフレッド・ヘンリーが亡くなったのは
1971年だったが、メアリー引退後の76年、ボスになるのはリチャード・ダンヒル、早世したヴァーノンの長男である。
こうしてダンヒル・ファミリーの経営継承によって創始者、アルフレッド・ダンヒルのエスプリは今日まで引き継がれている。
現在は紳士服を中心にしたメンズスーツ、ネクタイ、カフスなどを中心に、バッグ、ベルト、財布、時計、名刺入れなどの、アクセサリー関連も製品も取り扱う、トータルブランドにまで成長した。
香水は、アメリカのP&Gにライセンスの提供をして、「ダンヒル」ブランドで販売されている。
2007A/Wコレクションは、映画俳優のジュード・ロウを起用し、紳士的なスタイリングで話題となる。
2007年、サッカー日本代表のオフィシャルスーツを提供している。
2008年、キム・ジョーンズがクリエイティブディレクターに就任することが決定。メンズウェアとレザーアクセサリーのデザインを統括する。
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